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ケモノとケモナーに関する個人的な断片

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下本文見本 --- 繋がり  ケモノ界隈には、その名と裏腹に、ケモノが存在しているわけではない。むしろ実在するのはケモナーのみである。そしてそのケモナーも、個々が別個に孤立して存在しているのではない。彼らがケモノを介し、時としてその手段と目的が転倒するほど、繋がることを目的としている。  繋がらないままケモナーであることは、まずもって不可能である。繋がりたいか、繋がりたくないかに関わらず、私達は繋げられる。それがWebの、SNSの力であり、目的であり、結果である。そこでは、見るものは同時に見られるものである。私達は、自らを何らかのかたちで界隈という域内に投げ込むことにより、そこでの活動を行っている。  繋がることは何も不自然ではない。と、いうよりも、それはケモナーという定義以前の問題となる。もはやケモナーは孤立し得ない。ケモナーという呼称、またはある種の自虐的スティグマを自らにはりつける行為は、自らがケモナーという輪の中の一員であると自認する行為そのものである。その意味で、ケモナーは孤立することができない。なぜなら、ケモナーと称している時点で、同じようにケモナーと称している他のケモナーと同一の属性で括られ、ケモナーという認識に彼自身が意味づけられ、関連付けられるからである。かつ、大切なことは――ケモナーは「ケモノ」を希求しているということである。「ケモノ」はそれのみでは存在しえない。「ケモノ」は必ず、生み出すものがおり、それを「ケモノ」と分類する何者かが(生み出すものと同じかどうかは問題ではない)おり、場合によってはそれを拡散する者がおり、Webやイベントを通じて、各々のケモナーの前へと現れる。裏を返せば、「ケモノ」を受容するためには、そういった繋がりを承諾し、自らが関係性の輪の中に囚われるということに了承せねばならない。網の目の中にあるケモノ作品を掴み取るためには、そこに手を差し出さねばならない。水に濡れなければ泳げないように。  人により繋がりへの欲求と態度は無論異なる。しかしながら、バラつきというものが基本的には標準偏差に従うように、おおよその人は標準的な繋がりを求め、あるいはいま行っているわけである。毎日のように他のケモナーと会合を行い生身の人同士の繋がりによる楽しさを味わうケモナーは珍しいだろうが、同じように、基本的には全く関係を持たず、一切のメッセージを発信しないSNSのアカウントでひたすらに創作者の産物にありつくばかり、というケモナーもまた同様に珍しいであろうことが示唆される。良いか悪いかという価値判断は別にして、私達は、私達個人が思っている以上に、中央に近い平均的な存在であり、かつまた、更に「上」の方を目指したがる存在である。  「上」とはなんだろうか。それはケモナーとしてのステータスである。すなわち、いかに自らがケモナーとして「良い」か、という点である。善いのではなく、良いのである。道徳的価値判断や倫理的善行は、いちど脇に置かれる。主たる評価基準は、全て値である。個数、冊数、多寡が、自らおよび他人を評価する際の有用な判断基準として扱われている。  こう考えればより分かりやすいであろう。持っていないよりは、持っている方がいい。ただそれだけである。ケモノの同人誌をより多く有しているもの、より沢山の着ぐるみと同居しているもの、すなわち、ケモノ的なグッズを数多く所有しているものが「上」の存在になる。  所有することが、なぜ「上」のバロメーターとなるのであろうか。所有することが良いことだからこそ、ケモナーは持ちたがり、持っている己を主張したがる。  持つ、ということは、権力の関係である。持つ、ということは、相互に対等な関係ではない。持つことは、一方的で不平等な関係である。所有する側と所有される側の力関係は、明らかに、所有する側が優越している。そしてその関係が逆転することもあり得ない。恒常的に一方的な優越、すなわち権力を片方の側に生じさせるのが、持つ、所有する、という関係の示す構造である。  そして、また、見ることは所有することでもある。同人誌やグッズの所有は、ふつう、その同人誌の中身を確かめるために行われる。それは、中身を眺め、中に描かれているキャラクターを自分が所有するための行いであると考えられる。また、関係の所有でもあると考えられないだろうか。つまりは、同人誌を購入することで、私とその作者との関係も所有される。スケッチブックなどは、多数の名も無き購入者としての私とその絵師との紐帯ではなく、名指された、固有名としての私、その絵師にとって名を知られている私という、絆的な関係性が浮上する。アノニマスな、顔のない男のような存在としての私ではなく、実際に存在する作者と実際に触れ合う、実際にイベントに参加していた私、という関係性である。そういった関係性を深めること、有することに何らかの価値を感じるからこそ、私達は参加したがるし、繋がりたがる。  だから、ケモノ関連物をより多く所有していることは、それらケモノ関連物に対して、権力をより多く有している、という証左になる。同人誌であれ、ぬいぐるみであれ、キーホルダーであれ、多く有するものは、権力をより多く――より強く有していることになる。所有物の多さは、自らの権力の総体を増す。より多くのものを所有できる己の権力は、その所有している諸物の総和としてあらわされるし、その権力の多さ、大きさというのは、畢竟力の強さである、という解釈がなされる。強権者は、強力なのである。  だから、多くのグッズを有しているという表明は、それにより、自身の力能を表現する行為となる。一方でそれは、終わらない収集に自らを投じることでもある。対等な繋がりは、自身を見せるだけではなく、他者から見せられる関係でもある。「見せる」という行為を選択しているのは、ただ一人だけではない。多くの人々がその行為を選べば、彼らは互いに見せられる、ということを余儀なくされている。  そこでは、否応なしに(家、部屋、すなわち私的空間では権力者であるはずの)自身よりも更に多くの権力を有するものの存在を見せられる。「上には上がいる」ことを、容赦なく思い知らされる。所有しているケモノグッズの総数で、好きなキャラクターのアイテムの種類で、果ては同人誌の冊数で、見せ合う人々は、私達は、自らを他者と比べ、評価してしまう。購入したグッズや同人誌を「戦利品」と称する文化があるのは、これと無関係ではないだろう。  見ることは所有することであり、所有することは持ち主の力のあらわれである。ケモノで快楽を得、愉悦に浸る私達の中に、そういった感情の含有を認めないわけにはいかない。何度も言っているが、これは悪いことでも何でもない。そういった感情判断とはまた別の話なのだから。むしろ、本当に悪いことは、こういったことを無視し、あらゆるケモナーに純粋さを求めたり、それは本当にケモノが好きな態度ではないと断罪したりしてしまうことだろう。  私達は、末永く、誰もが平等に活動を続け、満喫するために、そのような事情を一度は勘案しなければならないだろう。有るものは有ることとして、それを受け容れ、その先にどう進んでいくか、ということを考えていくべきではないだろうか。誰かを排除することによって同質性を担保した集団は、その排除を窮極の状態にまで容易く進行させてしまう。そういった状況において、語りは少しずつ許されなくなっていく。  収集におけるその意味を、私達はよくよく考える段階に入っているのかもしれない。集め、総覧することは、それを自らの掌中に収め、一望に付す、その力の権化なのである。極めて権力的な欲求が、私達の中から溢れ出し、対象全てを支配しようと常にその機会を伺っている。ケモノはそれを引き出し、満足させてくれるツールのひとつであることは確かだろう。その満足は個人単体の帰結というよりもむしろ、ある集団内において自身の権力、ちからをあらわし、それによりその集団内での場所を確保する営みであるとも考えられる。居場所はそのようにして積極的に作り上げねばならない。彼や彼女がいかに実際の世界では寡黙な・優しい・思いやりのある・消極的な……性格を有していようとも、集団内ではそれを主張しなければ、認知されるには至らない。積極的に、消極的な自らをあらわす必要がある。常に充足している界隈という集団の中に己の立ち位置を、居場所を切り開くには、そのような主体的行為が不可欠である。  「ケモノ」は、いや、「ケモノ」を介して繋がるという行為はそういう意味でも、気持ちいい存在なのだ。自分がそこに存在していなくても成り立っていた(し、今後も存続していくであろう)集団の中を文字通り切り開き、自身をそこに挿入する営みを、私達はケモノを介して行っている。  「ケモノ」はケモノキャラクターをあらわす要素だけではなく、ケモナー自身をケモナーという界隈の中に関連付け、自らをあらわすツールでもある。

下本文見本 --- 繋がり  ケモノ界隈には、その名と裏腹に、ケモノが存在しているわけではない。むしろ実在するのはケモナーのみである。そしてそのケモナーも、個々が別個に孤立して存在しているのではない。彼らがケモノを介し、時としてその手段と目的が転倒するほど、繋がることを目的としている。  繋がらないままケモナーであることは、まずもって不可能である。繋がりたいか、繋がりたくないかに関わらず、私達は繋げられる。それがWebの、SNSの力であり、目的であり、結果である。そこでは、見るものは同時に見られるものである。私達は、自らを何らかのかたちで界隈という域内に投げ込むことにより、そこでの活動を行っている。  繋がることは何も不自然ではない。と、いうよりも、それはケモナーという定義以前の問題となる。もはやケモナーは孤立し得ない。ケモナーという呼称、またはある種の自虐的スティグマを自らにはりつける行為は、自らがケモナーという輪の中の一員であると自認する行為そのものである。その意味で、ケモナーは孤立することができない。なぜなら、ケモナーと称している時点で、同じようにケモナーと称している他のケモナーと同一の属性で括られ、ケモナーという認識に彼自身が意味づけられ、関連付けられるからである。かつ、大切なことは――ケモナーは「ケモノ」を希求しているということである。「ケモノ」はそれのみでは存在しえない。「ケモノ」は必ず、生み出すものがおり、それを「ケモノ」と分類する何者かが(生み出すものと同じかどうかは問題ではない)おり、場合によってはそれを拡散する者がおり、Webやイベントを通じて、各々のケモナーの前へと現れる。裏を返せば、「ケモノ」を受容するためには、そういった繋がりを承諾し、自らが関係性の輪の中に囚われるということに了承せねばならない。網の目の中にあるケモノ作品を掴み取るためには、そこに手を差し出さねばならない。水に濡れなければ泳げないように。  人により繋がりへの欲求と態度は無論異なる。しかしながら、バラつきというものが基本的には標準偏差に従うように、おおよその人は標準的な繋がりを求め、あるいはいま行っているわけである。毎日のように他のケモナーと会合を行い生身の人同士の繋がりによる楽しさを味わうケモナーは珍しいだろうが、同じように、基本的には全く関係を持たず、一切のメッセージを発信しないSNSのアカウントでひたすらに創作者の産物にありつくばかり、というケモナーもまた同様に珍しいであろうことが示唆される。良いか悪いかという価値判断は別にして、私達は、私達個人が思っている以上に、中央に近い平均的な存在であり、かつまた、更に「上」の方を目指したがる存在である。  「上」とはなんだろうか。それはケモナーとしてのステータスである。すなわち、いかに自らがケモナーとして「良い」か、という点である。善いのではなく、良いのである。道徳的価値判断や倫理的善行は、いちど脇に置かれる。主たる評価基準は、全て値である。個数、冊数、多寡が、自らおよび他人を評価する際の有用な判断基準として扱われている。  こう考えればより分かりやすいであろう。持っていないよりは、持っている方がいい。ただそれだけである。ケモノの同人誌をより多く有しているもの、より沢山の着ぐるみと同居しているもの、すなわち、ケモノ的なグッズを数多く所有しているものが「上」の存在になる。  所有することが、なぜ「上」のバロメーターとなるのであろうか。所有することが良いことだからこそ、ケモナーは持ちたがり、持っている己を主張したがる。  持つ、ということは、権力の関係である。持つ、ということは、相互に対等な関係ではない。持つことは、一方的で不平等な関係である。所有する側と所有される側の力関係は、明らかに、所有する側が優越している。そしてその関係が逆転することもあり得ない。恒常的に一方的な優越、すなわち権力を片方の側に生じさせるのが、持つ、所有する、という関係の示す構造である。  そして、また、見ることは所有することでもある。同人誌やグッズの所有は、ふつう、その同人誌の中身を確かめるために行われる。それは、中身を眺め、中に描かれているキャラクターを自分が所有するための行いであると考えられる。また、関係の所有でもあると考えられないだろうか。つまりは、同人誌を購入することで、私とその作者との関係も所有される。スケッチブックなどは、多数の名も無き購入者としての私とその絵師との紐帯ではなく、名指された、固有名としての私、その絵師にとって名を知られている私という、絆的な関係性が浮上する。アノニマスな、顔のない男のような存在としての私ではなく、実際に存在する作者と実際に触れ合う、実際にイベントに参加していた私、という関係性である。そういった関係性を深めること、有することに何らかの価値を感じるからこそ、私達は参加したがるし、繋がりたがる。  だから、ケモノ関連物をより多く所有していることは、それらケモノ関連物に対して、権力をより多く有している、という証左になる。同人誌であれ、ぬいぐるみであれ、キーホルダーであれ、多く有するものは、権力をより多く――より強く有していることになる。所有物の多さは、自らの権力の総体を増す。より多くのものを所有できる己の権力は、その所有している諸物の総和としてあらわされるし、その権力の多さ、大きさというのは、畢竟力の強さである、という解釈がなされる。強権者は、強力なのである。  だから、多くのグッズを有しているという表明は、それにより、自身の力能を表現する行為となる。一方でそれは、終わらない収集に自らを投じることでもある。対等な繋がりは、自身を見せるだけではなく、他者から見せられる関係でもある。「見せる」という行為を選択しているのは、ただ一人だけではない。多くの人々がその行為を選べば、彼らは互いに見せられる、ということを余儀なくされている。  そこでは、否応なしに(家、部屋、すなわち私的空間では権力者であるはずの)自身よりも更に多くの権力を有するものの存在を見せられる。「上には上がいる」ことを、容赦なく思い知らされる。所有しているケモノグッズの総数で、好きなキャラクターのアイテムの種類で、果ては同人誌の冊数で、見せ合う人々は、私達は、自らを他者と比べ、評価してしまう。購入したグッズや同人誌を「戦利品」と称する文化があるのは、これと無関係ではないだろう。  見ることは所有することであり、所有することは持ち主の力のあらわれである。ケモノで快楽を得、愉悦に浸る私達の中に、そういった感情の含有を認めないわけにはいかない。何度も言っているが、これは悪いことでも何でもない。そういった感情判断とはまた別の話なのだから。むしろ、本当に悪いことは、こういったことを無視し、あらゆるケモナーに純粋さを求めたり、それは本当にケモノが好きな態度ではないと断罪したりしてしまうことだろう。  私達は、末永く、誰もが平等に活動を続け、満喫するために、そのような事情を一度は勘案しなければならないだろう。有るものは有ることとして、それを受け容れ、その先にどう進んでいくか、ということを考えていくべきではないだろうか。誰かを排除することによって同質性を担保した集団は、その排除を窮極の状態にまで容易く進行させてしまう。そういった状況において、語りは少しずつ許されなくなっていく。  収集におけるその意味を、私達はよくよく考える段階に入っているのかもしれない。集め、総覧することは、それを自らの掌中に収め、一望に付す、その力の権化なのである。極めて権力的な欲求が、私達の中から溢れ出し、対象全てを支配しようと常にその機会を伺っている。ケモノはそれを引き出し、満足させてくれるツールのひとつであることは確かだろう。その満足は個人単体の帰結というよりもむしろ、ある集団内において自身の権力、ちからをあらわし、それによりその集団内での場所を確保する営みであるとも考えられる。居場所はそのようにして積極的に作り上げねばならない。彼や彼女がいかに実際の世界では寡黙な・優しい・思いやりのある・消極的な……性格を有していようとも、集団内ではそれを主張しなければ、認知されるには至らない。積極的に、消極的な自らをあらわす必要がある。常に充足している界隈という集団の中に己の立ち位置を、居場所を切り開くには、そのような主体的行為が不可欠である。  「ケモノ」は、いや、「ケモノ」を介して繋がるという行為はそういう意味でも、気持ちいい存在なのだ。自分がそこに存在していなくても成り立っていた(し、今後も存続していくであろう)集団の中を文字通り切り開き、自身をそこに挿入する営みを、私達はケモノを介して行っている。  「ケモノ」はケモノキャラクターをあらわす要素だけではなく、ケモナー自身をケモナーという界隈の中に関連付け、自らをあらわすツールでもある。